国立戒壇とは?(2/2)

国立戒壇こそが日蓮大聖人の御遺命である、と顕正会は叫ぶ。

国立戒壇とは、明治35(1902)年に国柱会の田中智学がその著書『本化妙宗式目』の中で唱え始めた戒壇論である。日蓮正宗においては、大正元(1912)年から昭和45(1970)年までの59年間のみ、本門寺の戒壇を指すニックネームとして用いられていた。国立戒壇は、単なる名称に過ぎなかったのだ。

しかるに顕正会は、明治45(1912)年以前に国立戒壇という「名称」が使われていなくても、弘安5(1282)年に日蓮大聖人が認められた御書の中に国立戒壇という「意義」は拝することができる、と主張し、宗門は国立戒壇を捨てて御遺命を破壊した、と喚く。

だが、日蓮大聖人の御書のどこをどう拝してみても、顕正会が昭和45(1970)年から叫んできた国立戒壇という「意義」を見い出すことができないのである。

日蓮一期弘法付嘱書

顕正会の浅井昭衛氏が、国立戒壇という「意義」を拝することのできる御書として挙げているのが、日蓮大聖人が弘安(1282)年に認められた『日蓮一期弘法付嘱書』である。

『日蓮一期弘法付嘱書』とは、日蓮大聖人が日興上人に対してのみ、その仏法のすべてを付嘱されたことを証する相承書のことである。この書の中において、本門戒壇の大御本尊の付嘱が示されると共に、弟子檀那らの日興上人に対する絶対的帰依と大御本尊を祭る本門寺の戒壇の建立が、御遺命として示されている。

以下が、その全文である:

この文中の「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」の御文をもって、浅井氏は国立戒壇という「意義」が拝せられる、としている。

日本語文法:主語の省略

日本語では、主語を省略することができる。

主語が省略できる条件は、同じ主語が繰り返される時や、誰が主語なのかが明示されていなくも判別できる時である。日本語とは、書き手の意図を察する言語なのである。

これとは逆に書き手が主語を明示している時は、その文だけ主語が異なっているサインである。そのサインを、読み手は適切に読み解いていかなければならない。日本語とは、読み手の日本語読解力も問われる言語なのである。

このような日本語の特徴を踏まえて、浅井氏が国立戒壇の「意義」があると主張する御文に、主語を加えて読み解いてみると、以下のようになる:

『日蓮一期弘法付嘱書』は、日蓮大聖人が日興上人に宛てた書であって、国主に宛てた書ではない。だから、国主が主語の時は国主を明示し、日興上人が主語の時は日興上人を省略する。

国主が立てるのは此の法だけであって、本門寺の戒壇を建てるわけではない。本門寺の戒壇を建てるのは日興上人だけであって、国主が建てるわけではない。

国立戒壇という意義は、浅井先生の日本語読解力の不足による勘違いに端を発していたものであったのである。

「私の話を聴いてくれない…」

顕正会とは、全く関係のない話になる。

最初の彼女との別れのシーンは、何十年経っても覚えているものである。

雨が降り出した中学校時代のある日、傘を忘れて濡れた彼女がおどけなから、「雨に降られて濡れちゃった」と私に言ってきた。彼女のこの一言に対し、私は何も考えることなくいつもの調子で、「傘ぐらい持って来いよ」と彼女に返した。そうしたら彼女は不意に足を止め、寂しそうに曇った顔を軽くうつむかせながら、こう別れを切り出してきた:

「私の話を聴いてくれたこと、これまで一度もなかったよね…」

このことを先輩に相談すると、先輩はこう教えてくれた:

彼女は、「雨に降られて濡れちゃった」出来事を彼氏とシェアして関係を深めたかっただけ。
彼氏は、「雨に降られて濡れちゃった」問題が彼女に二度と起きないようにしたかっただけ。

「名称」はたった一つでも、その名称に込めた「意義」が人によって異なる。「意義」が十人十色である以上、その前提となる日本語文の文法的読解に誤りがあってはならない。日本語読解力の不足は恥以外の何物でもない、ということを悟った瞬間だった。

「嗚呼、彼女に謝ってよりを戻したい。でも自分の恥を素直に認めることができない…」

浅井先生とは、全く関係のない話である。

吉田 功
日蓮正宗法華講員 元・創価学会三世 昭和60年、東京都葛飾区にて学会三世として生まれるも、幼少の頃から、池田大作の写真から発せられる おどろおどろしさ に違和感を覚え、平成9年の中学校入学より学会活動を拒否。学会に籍だけをおく未活動会員だったが、親友からの学会勧誘がきっかけとなって、平成19年9月から創価学会を客観的に調べ始める。その過程において、創価学会が元は日蓮正宗の信徒団体であったが平成3年に破門されていたという事実が判明し、学会から正式に脱会することを決意。平成20年11月、日蓮正宗への再入信が叶い、令和元年の今日に至るまで、法華講員として信心修行に励む毎日を送ってきている。