国立戒壇の建立を目指す唯一の団体が顕正会だと、顕正会は叫ぶ。
国立戒壇は、日蓮大聖人の仏法が世に広まった時に建てられる建物を指す名称として、昭和45(1970)年まで用いられていたが、現時の日蓮正宗では、この名称の使用は禁止されている。
片や顕正会は、この建物に「国立」が冠せられていたのは、国費をもって建立されるからでもなければ、国家によって管理されるからでもなく、ただただ内閣や国会の意思決定によってのみ建立されることになるからだと主張し、この「国立戒壇」の建立を日蓮大聖人唯一の御遺命として掲げて、今でもなおこの名称を使い続けている。
そしてこの「御遺命」を曲げた日蓮正宗に対し、この「御遺命」の守護を叫んでしまったがゆえに、昭和49(1974)年に講中解散処分を受けることになった、と当時を知らない現時の会員たちに説明し、だからこそ顕正会が日蓮大聖人の御心に叶った唯一の団体なのだ、と自称してきた。
だが、日蓮大聖人の御遺命は、顕正会が昭和45(1970)年から叫んできた「国立戒壇」には、そもそも事の始めからなかったのである。
本門寺の戒壇
日蓮大聖人の仏法は、本門戒壇の大御本尊に尽きる。
そのため日蓮正宗は、宗祖日蓮大聖人以来、この本門戒壇の大御本尊を守護して末代へと伝え、かつ大御本尊への信仰を世に広めてきた。日蓮大聖人の仏法は、この大御本尊ありきのものだからである。
そして、この信仰が世に広まった状況を広宣流布といい、この広宣流布が達成されて初めて、本門戒壇の大御本尊を公に祭る建物が、正式に建てられることになる。この建物は、古来より「本門寺の戒壇」と呼ばれてきた。
なお、広宣流布以前の大御本尊は公に開かれることはなく、蔵の中に秘す形式をもって祭られている。

国立戒壇
国立戒壇は、本門寺の戒壇を指すニックネームに過ぎない。
まず国立戒壇という名称を初めて使ったのは、明治35(1902)年に『本化妙宗式目』を著した国柱会の田中智学である。
次にこの名称を宗門の中で初めて使ったのは、大正元年(1912)年に他門と法論をした法華講員の荒木清勇氏である。
この名称を御法主上人猊下の中で用いられたのは、日亨上人、日昇上人、日淳上人、そして日達上人の四名のみであった。そして昭和45(1970)5月に至って、この国立戒壇という名称は、時の日達上人猊下によってその使用が正式に禁止される運びとなった。
その理由は、国立戒壇というニックネームがその実際の意味を帯びてしまい、日蓮正宗が国立の戒壇を本当に建立するのではないか、と世間一般の人々に勘違いされてしまったからである。この勘違いを払拭するために、名称の不使用を決定されたわけなのだ。

昭和6(1931)年生まれの浅井昭衛氏は国立戒壇という名称しか知らなかったため、何も知らない世間一般の人々と同じように、日蓮正宗が戒壇を国立で建てるものと勘違いしてしまったのは、当然といえば当然のことである。
なぜならば、国立戒壇の中でこの世に生を受け、国立戒壇の中で多感な青春を過ごし、国立戒壇の中で妙信講を補佐してきたのだから。その思い入れは尋常ではなかろう。
だが、ニックネームはニックネームに過ぎない。
国立戒壇しか叫ばない顕正会は、浅井昭衛の御心にのみ叶った団体なのである。

初恋の彼女の名前
顕正会とは、全く関係のない話になる。
これまで恋してきた女性の名前を一人一人思い出してみて、ふと、不思議な感覚に襲われた。
普通に考えたら、最後に恋した彼女の名前は一番簡単に思い出せるはずなのに、歳のせいなのか、直近の彼女の名前を思い出すことが、すぐにはできないのである。
反して最初に恋した彼女の名前は、時の流れによる記憶の風化の影響を微塵も受けることなく、漢字のその一字一句に至るまで、淡く儚い感情を伴って、まるで昨日の出来事のようにありありと思い出すことができるのだ。
男というものは、こういうロマンチックな生き物なのだ。
「嗚呼、昔の彼女の名前が忘れられない…」
浅井先生とは、全く関係のない話である。