天母山戒壇とは?(1/2)

天母山こそが、本門寺の戒壇を建立するべき場所である、と顕正会は叫ぶ。

天母山は、日蓮正宗総本山大石寺から東方へ約四キロ進んだ所にあることはある。だが、この山がれっきとした山として世間に認知されているかどうかは疑わしい。非常に険しく続く山道の先にある山頂には、戒壇を建てられそうな平地らしき平地がほとんどない。

このような天母山であっても、戒壇建立の勝地であることに変わりはない、と顕正会は喚く。そしてその証拠として、第二祖日興上人の書かれたものとされる大石寺大坊の棟札を挙げている。だから、天母山戒壇こそが日興上人の御遺命だ、というのである。

だが、日興上人の御遺命は、顕正会が昭和45(1970)年から叫んできた「天母山戒壇」には、そもそも事の始めからなかったのである。

天母山戒壇論の背景

顕正会による天母山戒壇論は、正本堂に端を発する。

昭和39(1964)年5月に建立寄進が打ち出された正本堂は、当時の顕正会員を含む日蓮正宗信徒からの御供養によって、昭和43(1968)年10月に着工し、四年後の昭和47(1972)年10月に完工した。以降、本門戒壇の大御本尊を祭る建物として、約四半世紀に渡ってその役割を果たすも、平成10(1998)年5月に解体されることとなった。その跡地には現在、新たなる奉安堂が立っている。

この正本堂の意義を巡って、建設真っ只中の昭和45(1970)年3月、顕正会の浅井昭衛氏は突如として、『正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う』と銘打った意見書を日蓮正宗宗務院に提出した。

その内容は、正本堂は本門寺の戒壇ではない。

その理由は、戒壇建立の地は天母山だからである。

その根拠は、天母山こそが日興上人の御遺命と耳にしたからである。

その出所は、日興上人の御筆とされる大坊棟札である。

大石寺大坊の棟札

浅井氏による大石寺大坊の棟札は、日興上人が書かれたものではなかった。

日興上人が書かれた棟札でないのであれば、そこに書かれている天母山が日興上人御遺命の地ということにはならない。天母山が御遺命の地でないのであれば、顕正会による天母山戒壇論は浅井先生の単なる勘違いに過ぎなかった、ということになる。

この大坊棟札が後世の偽作であったことを示す理由は、大きく分けて三つある:

① 日付が違う

棟札というものは、建物の完成に先立つ上棟式の折、骨組みだけの段階で屋根裏の棟木に打ち付けられるが一般的である。大石寺大坊の完成日が正応3(1290)年10月12日なのに対し、大坊棟札の作成日が正応4(1291)年3月12日と、大坊完成の五ヶ月後になっている。順番が逆なのである。

② 筆跡が違う

大坊棟札で使われている文字の書体は「御家流」と呼ばれるもので、江戸時代に入って初めて使われるようになった。かたや大坊棟札が作成された正応年間は、鎌倉時代に属している。江戸時代からは、安土桃山時代、室町時代、鎌倉時代と時代を三つも遡らなければならず、年に換算すると約210年にも及ぶことになる。

③ 署名が違う

百聞は一見に如かず、以下の対比を見てもらいたい:

署名捺印というものは、他者によるなりすましを未然に防ぐため、本人自らが自分の氏名を書いて、自分の印を押すのが原則である。漢字を間違えたり、押印を忘れたりするのはもっての他と言わざるを得ない。しかるに大坊棟札では、日興上人の「興」の字が間違っているばかりか、自身を証明するための花押すら違っている。

日興上人は、名前の不正使用による氏名権の侵害を被っている。この被害に対し、浅井先生は加担を決め込んでいるようだ。

好きな子からのラブレター

顕正会とは、全く関係のない話になる。

私が中学生だった頃、当時大好きだった女の子からラブレターをもらったことがある。

このラブレターは、その子から直接もらったというわけではなく、私の下駄箱の中に入れてあったものだ。ハートのシールで綴じられた手紙の封を開け、丸文字で書かれた文章を見てみると、そこにはこう書かれてあった:

「ずっと好きでした♡ 今日の放課後、学校裏の公園で待っています!」

私は公園でずっと待ち続けていたが、日が暮れても彼女が姿を現すことはなかった…

翌日、誘いをすっぽかしたことについて、私は彼女に糺し訴えた。だが、彼女は「知らない」の一点張りであった。プライドを傷つけられて引くに引けなくなった私は、つい「ずっとオレのこと好きだったんだろう!」と粋がってしまった。そしたら、侮蔑の眼差しに変わった彼女の口から、最後の一言が吐息のように漏れてきた:

「なに勘違いしてるの? キモいんだけど…」

二十年後の同窓会において、このラブレターが友達のイタズラであったことが判明したのだが…

「嗚呼、好きだったあの子が書いたラブレターだと、今でも信じている…」

浅井先生とは、全く関係のない話である。

吉田 功
日蓮正宗法華講員 元・創価学会三世 昭和60年、東京都葛飾区にて学会三世として生まれるも、幼少の頃から、池田大作の写真から発せられる おどろおどろしさ に違和感を覚え、平成9年の中学校入学より学会活動を拒否。学会に籍だけをおく未活動会員だったが、親友からの学会勧誘がきっかけとなって、平成19年9月から創価学会を客観的に調べ始める。その過程において、創価学会が元は日蓮正宗の信徒団体であったが平成3年に破門されていたという事実が判明し、学会から正式に脱会することを決意。平成20年11月、日蓮正宗への再入信が叶い、令和元年の今日に至るまで、法華講員として信心修行に励む毎日を送ってきている。