エホバの証人が伝道奉仕で宣べ伝えているもの、それが王国のこの良いたよりというものである。
王国のこの良いたよりとは、神が人類と結んだ約束事であり、その内容は、死者が復活した後に地上は元の楽園へと戻り、そこで人類は永遠に生きられるようになる、というものだ。
このたよりを、証人たちは本気で信じ、そして何も知らない世の人たちにも知ってもらおうと、自らの人生を伝道に捧げているのだ。と同時に、このたよりを宣べ伝える業こそが楽園に入れる唯一の切符、と信じているからでもある。
だが、今、どれだけ伝道奉仕に身を捧げたからといって、地上の楽園に入れるというわけではない。このことを、証人たちは何も知らないようだ。
王国のこの良いたより
エホバの証人にとって、人類の抱える諸問題は二つに突き詰めることができ、ひとつが人類の死、もうひとつが地上の悪である。
人類の死は、アダムとエバの原罪に端を発するが、イエスの贖罪によってすでに解決されている。イエスの贖罪が効力を発するのは、地上から悪が一掃された時だとされている。それら諸悪の根源はすべて、サタンにあるのだ。
そのようなサタンを地上から一掃する計画はすでに立てられている、という。
1914年10月以来、イエスが天の王国に臨在しており、地上が大患難に見舞われた時に天から降りてきて、まず羊と山羊の判別を行なう。その後、イエス率いる神の大軍とサタン率いる悪の大軍がぶつかってハルマゲドンの戦いが勃発し、最終的にサタンが地獄の獄に閉じ込められて終戦を迎える。
そこで長らくサタンの手中にあった地上の支配権がイエスに取って代り、イエス統治による千年王国が幕を開ける。死者が復活してくるのはまさにこの時であり、復活した者も戦いを生き残った者も地上の楽園への切符を手にするため、そこから千年間にも及ぶ裁判の日を勝ち残っていかなければならない。ここでの最終試練が、千年間の獄から解き放たれたサタンによる誘惑である。
大患難の時と千年王国の二つの試練に勝ち残った者だけが、最終的に地上の楽園へと至り、やっと永遠に生きられるようになる。そこからずっと、神を称えていかなければならない。

羊と山羊の裁き
エホバの証人にとって、人類の人種は三つしかない:エホバの証人かそれとも世の人か、世の人は証人を知っているのかそれとも知らないのか、である。
この人種の分類に基づき、千年王国での復活の成否が決定されることになる。復活できる者はエホバの証人と証人を知らなかった人たちであり、復活できない者はエホバの証人を知りながら証人にならなかった人たちである。言い換えると、このたよりを退けた世の人たちのことである。
このような人種の判別は羊と山羊の裁きと呼ばれ、大患難の時にイエスが実際に行なう、というのだ。山羊の裁きを受けた者たちは、ハルマゲドンの戦いで永滅させられ、千年王国で復活してくることはない。

このような理由から、証人たちは自らの人生のすべてを捧げて伝道奉仕を行ない、羊の裁きを受けようとする。それはとりもなおさず、千年王国で復活を遂げ、そして地上の楽園に入って永遠に生きたいからなのである。
証人たちの知らない神の教え
羊と山羊の裁きは、大患難の時に行なわれる。
大患難の時は、EUが他宗教を攻撃した時に始まるとされ、その予想時期は、1914年10月を起点に「この世代」が過ぎ去った辺り、大体2070年代と予想されている。ハルマゲドンの戦いについては、いつ始まるかは確定できないとされている。

ならば、今は大患難の時ではないではないか!
大患難の時が始まる以前であれば、エホバの証人であろうがなかろうが一切関係なく、誰もが千年王国で復活することができる、ということだ。言い換えれば、かりに神の教えに背いたとしても、今なら復活は叶うし、ハルマゲドンの戦いで永滅されるようなこともない。
この事実を、証人たちは何も知らない。
そもそも、大患難の時が始まること自体が疑わしいのだから、いつの日か万が一にも大患難の時が始まるようなことがあれば、その時にエホバの証人になればいいのだ。
これこそが、神の教えである。
神の教えに背く者はみな、永滅である。