ハルマゲドンの戦いとは?

ハルマゲドンの戦いは、1914年に勃こっていたはずだった。

エホバの証人の現行の教義によると、ハルマゲドンの戦いが勃こる時期を特定することはできず、また1914年に起こったのはキリストの臨在である、とされている。その上で、「昔はこのような先走った解釈をする者もいた」と、他人事のように嗤って言い繕う。

だが、ハルマゲドンの戦いが1914年に勃こると宣べ伝えていたのは、証人たちだけだったというわけではない。他ならぬ初代会長のラッセル本人が先導していたのである。しかしそんなラッセル氏も、今では単なる組織の準備係と見なされ、ゆえにその言動は信用に値しないものと思われている。

だが、協会がどんなに言い繕うと史実は史実、その無責任な言い逃れを許すわけにはいかないのだ。

ものみの塔聖書冊子協会の設立

ものみの塔聖書冊子協会は、以下の四段階を経て発足するに至る:

  ① 1870年:ラッセル氏が、聖書研究会を立ち上げる

  ② 1879年:『シオンのものみの塔およびキリスト臨在の告知者』が創刊される

  ③ 1881年:シオンのものみの塔聖書冊子協会が設立される

  ④ 1884年:シオンのものみの塔聖書冊子協会が法人化する

協会の法人設立後、初代会長のラッセル氏は、定期刊行誌『シオンのものみの塔およびキリスト臨在の告知者』に加えて、全七巻を発行することを予定とした『千年紀黎明』を以下の順に発行していく:

  ① 1886年:世々に渉る神の経倫

  ② 1889年:時は近づけり

  ③ 1891年:御国の来たらんことを

  ④ 1897年:ハルマゲドンの戦い

  ⑤ 1899年:神と人間との和解

  ⑥ 1906年:新しい創造物

  ⑦ ~未完成~

1914年にハルマゲドンの戦い勃こるという預言は、機関誌創刊当初からその誌面上で繰り広げられ、その読者たちは聖書理解の助けと称する『千年紀黎明』をもって、その預言へとさらに煽り立てられていくこととなる。

ハルマゲドンの戦い

ラッセルの預言と現行の教義を、年代順に比較すると以下のようになる:

ラッセルの預言と現行の教義の比較

1914年に始まったとされるキリストの臨在は、実は1874年にすでに始まっていたようだ。

終わりの日を彩るとされる戦争、飢饉、地震、疫病は、1914年以前もこの地上に頻発していたようだ。

1914年にハルマゲドン戦いをすると約束した神は、今やその約束を違え、無期延長にしてしまったようだ。

終わりだったはずの1914年は、いつしか始まりにすり替えられてしまったようだ。

エホバの証人にとってのハルマゲドンの戦いは、地上から悪を一掃するための崇高な戦いである。それは忌み嫌うべきものではなく、逆に待ち望むべきものなのである。なぜならば、この戦いが勃こらないと、死者の復活も永遠の生命も地上の楽園も、神が約束したものの何もかもが訪れることがないからだ。

神は証人たちに対し、サタンの中でもっと苦しめと無言のメッセージを送っているのだろう。

責任転嫁、そして裏切り

エホバの証人には、預言外しを言い繕うための常套手段がある:

「ハルマゲドンの戦いが1914年に勃こると解釈したのは、協会ではない。証人たちである」

1914年のハルマゲドンの戦いの預言を巡る真実の姿は、協会側が預言の盲信を証人たちに強要しつつ、預言を外した責任をも証人たちに押し付けていく、というものだったのだ。

このような責任転嫁こそが、エホバの証人の体質なのである。そして体質は、そう簡単に変わることはない。逆に組織の中で蔓延し、後に続く世代へと継承されていくこととなる。

今に生きる証人たちも、他人事のように嗤う昔を生きた証人たちのように、協会に裏切られる運命にある。

1914年のハルマゲドンの戦いの預言は、協会の裏切り史のほんの序幕に過ぎないのだ。

吉田 功
日蓮正宗法華講員 元・創価学会三世 昭和60年、東京都葛飾区にて学会三世として生まれるも、幼少の頃から、池田大作の写真から発せられる おどろおどろしさ に違和感を覚え、平成9年の中学校入学より学会活動を拒否。学会に籍だけをおく未活動会員だったが、親友からの学会勧誘がきっかけとなって、平成19年9月から創価学会を客観的に調べ始める。その過程において、創価学会が元は日蓮正宗の信徒団体であったが平成3年に破門されていたという事実が判明し、学会から正式に脱会することを決意。平成20年11月、日蓮正宗への再入信が叶い、令和元年の今日に至るまで、法華講員として信心修行に励む毎日を送ってきている。