エホバの証人の性格的特徴とは?

邪義邪宗の謗法害毒は、性格的特徴に見て取ることができる。

エホバの証人の性格的特徴は、「羊」と「奴隷」のふたつの言葉で言い表すことができる。証人たちは、羊のように柔順に、そして奴隷のように従順に、神に仕えようとしている。神の命令は絶対であり、それに疑って逆らおうなどとは、夢にも思っていない。神から与えられた自由意志は、同じく神によって定められた小さな囲いの中でのみ行使できる特権なのである。そのような自由意志など名ばかりのもので、神の下では、世間一般の人たちが想像するような自由意志など実在していないのである。

インドのサーカス象を例に挙げて、証人たちのおかれている心理的状況を説明してみよう。インドのサーカス象は、小象のときからサーカス象になるための訓練を受けてきている。その訓練での第一ステップは、小象の片足を鎖でがんじがらめにして杭に固定することである。その目的は、小象に無力感を味わわせることにある。小象は、足が繋がれた杭から何とか逃げ出そうと、来る日も来る日も、足をもがいては懸命に努力を重ねるだろうが、その杭はあまりにも強固に地面に打ち付けられているため、小象の力だけでは到底逃げ出すことなどできない。そしてあるとき、小象は悟る:ムリだと… 大人に成長した小象には、小さいときに経験した無力感が心の中に刻まれている。それゆえ、地面に軽く打ち付けられただけの杭でも、その心の傷が邪魔をして、大人になっても逃げ出そうとしないのだ。大人になった今なら、ちょっと力を入れれば逃げ出すことができるのにもかかわらず…

証人たちのおかれている状況もサーカス象と同じである。とりわけ、二世として育った証人たちは幼少のときから、神は絶対だと洗脳されてきている。少しでも神を疑おうものなら、「思想上のイジメ」を親や長老から受け、少しでも神の命令に逆らおうものなら、愛の名の下で「虐待(肉体的なイジメ)」を受けることになる。女児にいたっては、男性の長老から「性的虐待」を受けているケースが稀にある。ここでいう疑いや逆らいとは、証人が自らの頭で考えることを指している。なぜなら、証人が自ら考え出した答えが、もし神の用意した答えと違っていれば、それは神への疑いや逆らいと見なされてしまうからである。要は、“何も考えずに神から命令されたことだけをしていればいい” というメッセージが、イジメを通して伝えられているのである。さらに、外部情報へのアクセスが禁止されていることも、証人たちを取り巻く状況を悪くする要因となっている。協会以外の情報が一切なく、また考えることも禁止されていれば、証人たちが、協会以外に自分の居場所はないと信じて逃げ出そうとしないのもおかしなことではなかろう。

このような環境下で多感な青春時代を過ごせば、子供の証人たちは、成年になるまでには、立派な「エホバの証人」へと変貌を遂げることになるだろう。神に対して柔順かつ従順な「エホバの証人」へと…


エホバの証人は、自己アイデンティティを無意識下に抑圧している。

我々の狙いは、エホバの証人にアイデンティティ・クライシスを起こさせることである。


【「羊」が「羊」を「イジメ」る理由】

「内と外では顔が違う」または「上と下では態度が違う」という性格の二面性は、エホバの証人に限らず、キリスト教徒全体に見られる特徴のひとつである。エホバの証人に関していえば、聖書に対する忠実性が度を超しているため、他のキリスト教会と比べて、性格の二面性が如実に現れるようになる。言い換えれば、聖書の影響によって、エホバの証人の性格は二面性を帯びるようになる、ということだ。では、聖書とはいかなる書物なのか? 以下に概略を説明する。


聖書とはいかなる書物なのか?

聖書は、旧約聖書と新約聖書のふたつの書物からなっている。単刀直入にいうと、旧約聖書は、ユダヤ民族の他民族侵略の歴史を正当化するために創られた書物である。ユダヤ民族には、他国を侵略して他民族を虐殺した過去があり、その残虐性を「神の名の下に」聖ならしめようとしたわけである。「聖書」とは単なるタイトルに過ぎず、その内容は虐殺と酒乱と乱交。三流ゴシップ雑誌にも劣る。ひるがえって、新約聖書では博愛が説かれるようになる。旧約聖書で説かれるメシアをイエス・キリストとし、イエスが神の愛を説いていくわけだ。しかし、新約聖書でも、最後の最後には、神はその本性を露わにし、人類を滅ぼすことが予証されるのだ。愛ある神が人類を滅ぼす。博愛の仮面の下に残虐性を隠し持った神。このような神の本性が、感応道交の理に基づいて、証人たちの内側に浸透していくことによって、内と外そして上と下とで態度が異なる二面性が形成される結果となる。


エホバの証人は、部外者にとっては人畜無害の宗教団体である。常に笑顔を絶やすことなく、また争いを避けようとする性質もあるため、傍からは優しくて良い人だと勘違いされてしまう。だが、この博愛の顔は外に向けられたものであり、同じ顔も内に向けられれば豹変する。内といっても単なる内ではない。内の中のさらなる内に対してである。詳しくいえば、自分より格下の成員や受け持ちの研究生、または子供たちのような目下の者たちに対し、しかも他の証人たちの面前ではなくて一対一の密室という環境が整ったときに、初めて支配者の本性を露わにするのだ。だが悲しいことに、その瞳の奥にサタンを見て取ることができるのは、被害者となった弱者のみである。


エホバの証人は、神のような二面性を有し、博愛の仮面の下に残虐性を隠し持っている。

エホバの証人の二面性が露わになるのは、弱者と密室にいるときだけである。

公衆の面前では、弱者を見た一瞬だけ、瞳が蛇のように変貌する。


吉田 功
日蓮正宗法華講員 元・創価学会三世 昭和60年、東京都葛飾区にて学会三世として生まれるも、幼少の頃から、池田大作の写真から発せられる おどろおどろしさ に違和感を覚え、平成9年の中学校入学より学会活動を拒否。学会に籍だけをおく未活動会員だったが、親友からの学会勧誘がきっかけとなって、平成19年9月から創価学会を客観的に調べ始める。その過程において、創価学会が元は日蓮正宗の信徒団体であったが平成3年に破門されていたという事実が判明し、学会から正式に脱会することを決意。平成20年11月、日蓮正宗への再入信が叶い、令和元年の今日に至るまで、法華講員として信心修行に励む毎日を送ってきている。

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